人生は自分が決める

このブログを訪れてくれた皆様が幸せに過ごせるように願って綴っていきたいと思います

人生とは他との戦いではなく、自分自身のなかにうごめく、わがまま、怠惰、勝ち気、冷淡、さまざまのよからぬ欲望などとの戦いであると知ったとき、わたしたちの生活内容はたしかに変わる。


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人生とは他との戦いではなく、自分自身のなかにうごめく、わがまま、怠惰、勝ち気、冷淡、さまざまのよからぬ欲望などとの戦いであると知ったとき、わたしたちの生活はたしかに変わる。

 

タイトルの言葉は、三浦綾子さんの「愛すること 信ずること」に書かれてある言葉です。

 

三浦綾子さんは、敬虔なクリスチャンで、小説などで神様のことを知ってほしい、まだ神様のことを知らない方がいらしたら、本当の幸せを得るために神様を知っていただきたいと、ずっと書き続けておられました。

 

三浦綾子さんの小説も随筆も、絶望を希望に変えることのできる神様を指し示したいからだそうです。

 

人生、面倒くさいことの繰り返しです。

 

こんなの嫌だ。

 

私はこんなに頑張ってきたのに。

 

今まで、一生懸命我慢してきたのに。

 

なんで私がこんな目に合わないといけないの?

 

こんな想いにとらわれてしまうことありますよね。

 

でも、神様を信じて生きる人にとって、世の中では、その人を最終的に幸せにすることしか起こらないのです。

 

人生にはいろいろなことがありますが、何があっても絶えず感謝です。

 

そして、その感謝を精進努力の実践に昇華させてこそ、その感謝の心は本物になるのです。

 

 

人間、皆、死ぬのです。

 

全部死にます。

 

限りある命です。

 

長く生きる人もいれば短命な方もおられますが、いつ死ぬかが問題ではなくて、どのように生きたかが問題だと思います。

 

死んだ後、どこに行くか。

 

私たちは、その準備をしながら生きていくべきなのだと思います。

 

 

「面倒くさいこと」が山積みのあなたへ


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面倒くさいことが山積みのあなたへ

ただ「小さな面倒をやっておく」だけで負の連鎖から抜け出し、日々のストレスからも解放されます。

 

成果も上がって、幸せな毎日を送ることができます。

 

もし、あなたが面倒くさがりやだとしたら、それはひとつの才能であり、とてつもない可能性を秘めていると考えるべきなのです。

 

一方、ここで小さな面倒から逃げていると、一生面倒くさい流れが変わりません。

 

次々と面倒くさいことを引き寄せ、気づいたときには面倒くさい循環から抜け出せなくなってしまうでしょう。

 

そのことに気付いた瞬間から変えられる

でも、その面倒くさい循環にはまっていることに気付いた瞬間から、未来は変えられるのです。

 

今まで、面倒くさいな~と思っていたことを一つずつやっていくんです。

 

どんなことでもいいんです。

 

今まで片付けていなかったところを片付けてみる。

 

読んでいなかった本を読んでみる。

 

丁寧に掃除をしてみる。

 

断捨離をしてみる。

 

食器洗いをためずにやってみる。

 

人から見て、そんなしょうもないことと思われることでもいいんです。

 

自分が自分の面倒くさいことと向き合って、一つずつクリアしていくゲームだと思って進めていけばいいんです。

 

人からなんと言われようが、自分の課題をこなしていけばいいんです。

 

小さなことでも、一つずつこなしていくと、自分に良くやった!って言ってあげたくなります。

 

これを続けていくことで、自己肯定感が上がっていくはずです。

 

 

 

 

神はわたしたちの求めるものよりも、更にすばらしいものを用意しておられる時は、祈りを聞いてくださらないこともある


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神はわたしたちの求めるものよりも、更にすばらしいものを用意しておられる時は、祈りを聞いてくださらないこともある

 

このタイトルの言葉は、三浦綾子さんの北国日記に書かれていたものです。

 

三浦綾子さんは敬虔なクリスチャンで、キリスト教をベースにした小説を沢山書かれています。

 

この本の中で、

 

わたしたちは病気よりも健康のほうがよいと思う。

 

貧しさよりも金持ちになることがよいと思う。

 

だが、神は、人間には病気の時があってよいと思い、貧しい時があってよいと見られるのかも知れない。

 

そしてそのような神の計らいが、わたしたち人間にとって最もすばらしいことになるのかも知れない。

 

と書いてあるのです。

 

私も祈りの大切さをずっとこのブログでも伝えてきています。

 

なかなか祈っても自分の思ったように叶わなかったり、本当に神様は聞いて下さっているんだろうかと思う時もあるかもしれません。

 

それでも、祈りは続けてほしいです。

 

本当に、神様は人智を越えた存在なのです。

 

タイトルの言葉どおり、

 

神はわたしたちの求めるものよりも、更にすばらしいものを用意しておられる時は、祈りを聞いてくださらないこともある

のです。

 

思うようにならない時、わたしたちの思った以上のすばらしい出来事を与えて下さるのです。

 

将棋でも、上段者になるほど、どうしてそこに打った?!っていう一手を打つことがありますよね。

 

普通の人にはわからない、理解できない一手でも、上段者にとっては先の先まで見据えた一手だったりするんですよね。

 

そして、それが勝利につながる一手だったりするのです。

 

神様も先々を見据えて、わたしたちが絶対に幸せになるように導いてくださいます。

 

祈っても、状況が余計に悪くなったように感じても、なんの変化もないように感じても、絶対に神様は善なる方向に導いてくださっているはずなんです。

 

このことを信じきるのが信仰の大切さなのです。

 

 

 

霊界とは想いの世界



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霊界とは想いの世界であり、その存在を意識すればするほど、そのパワーと影響は大きくなる、というのが霊界法則です。

 

無論、悪霊も霊界の存在ですから、悪霊に意識を向ければ向けるほど、悪霊のパワーが強大になり、受ける影響もまた大きくなります。

 

日々を落ち込んだ暗い気持ちで送り、

 

「ウチは因縁が深いから」などというマイナスの想念で生きていると、悪霊パワーが一段と大きくなってくるわけです。

 

したがって、悪霊のことは一切考えずに、守護霊様、背後霊様に守られていることを強く信じ、祈り、行動すること。

 

これが、運を切り拓き、実り多き人生を送るための大原則となります。

 

常に明るく前向きに日々を送り、大きな志を立てて、自分を磨き続ければ、守護霊パワーがどんどん強くなるわけですから、

 

悪霊のことは考えない、意識を向けないほうがベターということになります。

 

 

真心でやったことは必ず無駄にならない


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今は無駄のように思えても、直接それが開花する、また評価されるものじゃなくても、必ず間接的にいつか、どこかで実となり花となるのです。

 

いつも、一つずつを大切に生きていると、いろいろいいこともあります。

 

どこでどうなるか分かりませんから。

 

誰とも平等に接することができるようになるのが一番いいのです。

 

すなどりはやめましょうということです。

 

この人とは良くしようとか、この人は見くびって大したことないと思う。

 

そういう心というのが、実は神心ではないのです。

 

それは非常に動物的な心なのです。

 

幸運というのは、そういう心をすっかりなくすのが早道です。

 

侮り、すなどり、横取りはだめということです。

 

そういうものを無くしたときに、神仏がほほ笑むんですね。

 

人に対しても、自然に対しても、徹底的に誠を尽くす覚悟を決めて生きれば、天は必ず力を与えて下さいます。

 

そして、どんなに困難と思えることでも、不可能はなくなるのです。

 

他人の幸せのためにに尽くすことを喜びとすること。

 

それが結局は自分自身を幸せにすることにもつながるのです。

 

 

悪霊から自分を守る方法


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それは、どんなに挫折感や絶望感を味わっても、すぐに前向きの意欲と明るい希望に変えて、人生を切り開こうとすることです。

 

これが、本当の意味での信仰力というものなのです。

 

そしてこれこそが、自分のご本霊を常に発動させておくことになるのです。

 

どんなに悪い霊でも、どんなに強い霊でも、ご本霊を常に発動させているひとにはとりつくことができないのです。

 

どんなに挫折感や絶望感を味わっても、

 

「これらはすべて神様のお導きなのよ。

絶対に一切が良いほうに変わっていくよう導いて下さっているんだから」

って、自分に言い聞かせるわけです。

 

そうやってやり過ごしていると、その後、本当にそうなっていくのが不思議なんですが、実際に物事が良くなっていくんですね。

 

どのような困難があっても、その奥の神意を見ていかなければならないのです。

 

何事も困難の奥には、大きな御神意があり、それは皆の向上を考えて下さっているもの、皆の進歩、発展を促すものなのです。

 

困難の奥にあるのは、神様の大愛、神様のお計らいなのです。

 

だから、どんな困難があっても、最後には必ず報われる。

 

最後には神様が必ず結果を与えてくれる。

 

こう確信して生きていくこと。

 

物事の奥にある神の計らいを確信して、ゆめゆめ疑ってはならないのです。

 

人は幸せになるために生まれてくる


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「人は何のために生まれてくるのか」

 

これは人類にとって永遠のテーマです。

 

「私は、幸せになりたくて生きてるんじゃない」

といったへそ曲がりや、

 

「生まれたくて生まれてきたんじゃない」

 

「親が勝手に生んだんだから、勝手に生きているんだ」

 

と言う人もいますが、大多数の人々は幸せになることを願っているものです。

 

私は、

「人は生まれてきたからには、幸せになる義務がある」

 

これが天命だと思っています。

 

ただし、幸せにはいくつかの段階があります。

 

低い次元として、まず非常に即物的な快楽があります。

 

これは、一般にいわれている性的な快楽、肉欲的な歓喜こそ一番楽しく、幸せであるとする、動物的で肉体的な欲求を満たす考え方です。

 

少しランクが上がると、経済的、物質的豊かさの追求になります。

 

おいしい食事を、華やかな衣装を、大きくて快適な住居を、そして名誉や地位や富を、ということになります。

 

しかし、このような低次元の即物的な幸せ追求(もちろん、それらも必要なものではありますが)には、基準も限界も真の豊かさもないから、いつでも人は飢えた餓鬼のように、次々と量のみを追い求めることになってしまうのです。

 

そうして経済的、物質的な豊かさのみによる幸せは、求めれば求めるほどかえって真の幸せから遠ざかり、人の心を寂しくし、虚無を感じさせることになるのです。

 

この真実をこそ、心せねばなりません。

 

世界中を旅行した人が、色々な国の人々と出会い、その結果わかったことは、

 

「一番貧しい国の人々が最も優しかった」

 

という事実だったそうです。

 

何故でしょうか?

 

物質の豊かさでは、人は決して心まで豊かになれないということではないでしょうか。

 

むしろ貧しい人々のほうが心優しく、美しい…。

 

このことについては、二千六百年も前のインドのゴーダマ・シッダルダ、すなわち釈迦もまた、同じ悩みを抱えていたことはご存知でしょう。

 

王子として生まれた釈迦は、経済面はもちろんのこと、妻も子供もいる何不自由ない生活を送っていながら、いつも心に満たされない虚しさを感じ続けていました。

 

「人は何のために生まれて、なぜ生きるのか」

 

といったテーマが、常に彼の心を悩ませていたのです。

 

そして、答えを求めてすべてを捨て、出家し、ついに大悟に達したのです。

 

人の一生は変化の連続です。

 

そして、“少年老いやすく、学なりがたし”といいます。

 

青年時代はハンサムでスポーツマンだった人も、中年になればお腹も出てきます。

 

肉体的なものはやがて老い、衰えてきます。

 

女性も若い頃は人に振り向かれるぐらい美しかったのに、当然のごとく年と共に醜くなり人気もなくなって寂しくなってきます。

 

それは誰一人として避けられません。

 

実に哀しい天地の法則ではないでしょうか。

 

それだけに、人は老境に近づけば近づくほど、心の持ち方が大切になってきます。

 

それが上手に出来た人は、年とともに逆に幸せになっていくことが出来るのです。

 

心の持ち方(心の豊かさ)は、魂に物やことでは味わえない実に大きな悦びをもたらしてくれるからです。

 

その媒介が芸術であったり、信仰であったり、学問であったりするのです。

 

自分の魂が本当に満足するときの悦びは、永遠のものです。

 

人が再生転生し、生まれ変わっても死に変わっても、変わらない悦びが魂の悦びであり、それは全て記憶されていくのです。