人生は自分が決める

このブログを訪れてくれた皆様が幸せに過ごせるように願って綴っていきたいと思います

ケンカしても根にもたないこと

 


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なんでもすぐに忘れることです。

 

怨みを抱かず、根にもたない最良の方法は、日常生活で暇をつくらず、特技か趣味か何かに心を転じ、没頭できることをもつことです。

 

つまり、気を転ずることによって、悪い気の凝結をうまく発散させるのです。

 

それができない女性は、絶えず夫と子供にばかり心が傾き、アンバランスの状態をきたします。

 

すると、何かちょっと言われたことを根にもって、そのことばかりを気にとめて、反復しては想念の中で拡大化してしまうのです。

 

これが不幸感と苦しみの実態になるのです。

 

もっと心の切り替え上手になりましょう。

 

とにかく、ムカついたり、あの人が許せない!とか、ずーっとイライラしていたり、腹がたってしまっていたら、暇な証拠だと思って、さっさと他のことをやりましょう。

 

おすすめは掃除ですが、本を読んでもいいし、ウインドーショッピングでもいいし、何でもいいので、他のことに没頭してみましょう。

 

イライラしてたことなんて忘れてしまうぐらい没頭できたら、気を転ずるという技をマスターしたことになりますよ。

 

この技は一生使える技なので、早めにマスターすることをおすすめします。

 

 

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あらゆる罪の中で怠りの罪が一番重い


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ぼ~っとして何もしない、

 

恐れて何もしない、

 

考えて考えて何もしない、

 

高いレベルの目標を持って一生懸命やるということをしない、

 

これらが一番問題なのです。

 

それが、怠りの罪ですよ。

 

あらゆる罪の中で、怠りの罪が一番重いんですよ。

 

魂を進歩向上するために生まれてきているわけですから、怠けというのは進歩向上していないわけですから、生まれてきた意義と意味に一番合わないわけです。

 

怠りの反対は、やり過ぎの傲慢、増長慢などがありますが、神様から見たら怠りの罪がもっとも深いのです。

 

理由は簡単です。

 

油断したり、怠ってばかりいたら何一つ魂に記憶が残らないからです。

 

 

それにたいして、傲慢や増長慢も神仏が戒めるところではありますが、人間わけもなく傲慢になったり、増長慢になったりはしないのです。

 

中には何の根拠もないのにやたらと尊大な態度を取る人もいるにはいるが、自信の裏付けとなる何らかの実績があるときに天狗の鼻が高くなるのが普通で、その実績を積むまでの苦労と努力は魂の記憶に残る。

それが尊いのである。

 

なぜなら、たとえ一時的に増長慢になったとしても、反省して姿勢を正せば、その記憶が180度転換されて、世のため人のために役立つようになるからである。

 

要するに、増長慢や傲慢というのはちょっと方向性がずれているだけで、基本的には大きな誤りではない。

 

ちょっと傲慢になってきたな、慢心が働いているなと思ったら、傲慢にならないようにと心を調節していけばいいのだ。

 

その調節はどのようにやるかというと、これはもう謙虚の徳を磨くしかない。

 

増長慢、傲慢は褒められたことではない。

 

だが、反省すれば、それまで積み上げてきた実績、悟りといったものが180度転換されて、世のため人のために役立てられるのだ。

 

褒められたことではないけれど、それほど悲観するものでもない。

 

ところが、怠りがあって、何をするのも面倒くさいという心を持っている人が反省した場合、何が魂の記憶に残るかというと、全くのゼロ。何も残っていない。

 

だから、怠け者や無精者が何らかのきっかけで反省して、

「私は、これから一生懸命勉強する!」

と志を立てたとしても、一から始めるしかない。

 

それまでの人生はすべてムダになってしまうのだ。

 

だから、遊惰安逸に流されて、怠りと油断の日々を過ごすのは、神霊的にも現実的にも最も重い罪なのです。

 

ちなみに、この怠りの罪の極致が自殺なのです。

 

借金苦で生きていくのがつらい、身内を失い生きていても楽しくない、病気でこんなにつらい思いをするくらいなら、いっそ死んでしまいたい・・・。

 

自殺する人にはそれぞれ理由と事情があるのでしょうが、要するに、苦しみを越えていくのが面倒くさいから自殺するわけです。

 

だから、怠りの罪の極致は自殺なのであって、逆に言うと、怠っている人は毎日毎日、自殺行為を繰り返しているようなものと言うことができます。

 

とにもかくにも、面倒くさいという心を捨て去ること。

 

これがすべての始まりであるということをしっかりと確認したいですね。

 

 

 

絶対的な不幸なんてない


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絶対的な不幸なんてないのです。

 

不幸な気持ちがあるだけなんです。

 

これは意味が深い言葉で、たとえば子供が親不孝で、やりたい放題で親に迷惑ばかりかけ、心配ばかりかけていると、親は苦労しますし、病気になったりして、本当に子供のせいで不幸になってしまったと思うでしょう。

 

たしかに、そういう人がいます。

 

子供のことで心配ばかりして、自分を不幸にしている人がいます。

 

でも、子供に気持ちが着さないで生きていけるならば、たとえいろいろあっても、痛み苦しみはあっても、それが不幸とはならないのです。

 

自分の心が子供に囚われているから、不幸と思う気持ちになるのであり、じっさいに不幸なわけです。

 

また、比較してみればわかるように、もっと不幸な環境の人はたくさんいますし、上には上があります。

 

それがわかる人は、そういう人たちに比べて、自分の方が不幸だとは思わないでしょう。

 

むしろ幸せだと思えてくるものです。

 

そういう境地や信仰を持っている人は、不幸には絶対にならないそうです。

 

 

そして大事なことは、生きてるときに幸せな人は、あの世でも浄土のような世界ですが、生きてるときにそれが悟れず、不幸な人は、あの世でも大したことがないということです。

 

環境に支配されずに、環境を支配する側でないといけないのです。

 

そうやって、苦しい環境のときでも苦しいと思わなくなることができれば、たしかに不幸になりようがないですね。

 

自分を不幸な気持ちにしないで、幸せな自分にすることが一番素晴らしいことなのです。

 

それと平行して、より実力も運も備わればさらにいうことがないです。

 

そして、日々、目標に向かって、只今、只今に生きていけばいいわけです。

 

そうすると、悩む暇もないし、現実的に問題があっても結果的に良い方に向かいます。

 

たとえ良い方に行かなかったとしても、気にならなくなりますから、どのみち不幸ではありません。

 

まず、絶対に自分を不幸にしない自分をつくらないといけません。

 

そうすれば、あとは幸せな自分しか残らないし、幸せになる道にしか進みようがなくなりますから。

 

 

 

思い通りにならないときには


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思い通りにならないことが起きても、それは必ず私の将来にとってプラスになることだと信じて疑わないことが大切です。

 

たとえ理不尽なことがあっても、それが将来の自分自身に大きな役に立つことなんだと信じきることです。

 

そうすると、本当にその通りになるのです。

 

普通は、なかなかそこまで信じきることができる人はいないでしょう。

 

小さなことならともかく、本当に腹がたつこととか、酷いことが起きれば、とてもそういう気持ちにはなれません。

 

それに関わる相手を強く恨んだりもするでしょう。

 

そこが凡人で終わるか、はたまた天才的な人になっていくかの別れ目の一つになっているのかもしれません。

 

 

習慣化できない時は、それでも、必ず習慣化できて素晴らしくなるに違いない、と信じきるのです。

 

習慣化がなかなかできないからこそ、できた時はものすごく素晴らしくなるに違いない、と信じきる。

 

だから、途中で諦めさえしなければ、必ずいつかやれるようになるから、できるまでやろうと思うようにするのです。

 

それをどこまで信じきれるかです。

 

とにかく、自分を信じるというよりも、それと同じかそれ以上に、神様がきっとできるようにしてくださるに違いない。

 

困難があっても、それは後でぜんぶ自分の進歩向上につながるものだから、嘆かず、悔やまず、恨まず、悲観せず、絶対に将来は素晴らしくなると、神様を信じきることで確信することが大切です。

 

 

 

運の強い人と積極的につきあう


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いろんな友だちが身の周りにいる。

 

注意深く観察してみると、運勢のいい人と、そうでない人がいるのに気がつくだろう。

 

運勢のよい人というのは、ものごとをいつも最後までやり通す強い意思を持ち、考え深くていつも朗らか、周囲の人をあきさせず、笑いが絶えない。

 

こういう人とつきあっていると、自分自身も運勢がよくなってくる。

 

逆に運のよくない人はどうかといえば、陰気臭くていつも消極的。

 

「だめにきまってる。やるだけ無駄だよ」

と、決して自分から何かをやろうとしない。

 

そのくせ、ものすごく批判的で、人の悪口は平気でペラペラしゃべる。

 

この人のグループに入ると、運勢が悪くなりロクなことにはならない。

 

 

運勢のよい人、悪い人を神霊界から眺めるとどうなっているか。

 

運が強く勢いのある人は、その人が中心で明るく輝いており、周囲の人々をその明るいウズのなかに巻き込もうとしてる。

 

なんでも積極的にやろうとしているので、守護霊も一緒になって「やろう、やろう」と賛成、全面的協力体制を整えている。

 

悪霊などが入り込む余地がないので、いつも神々しい霊気で満ちあふれているというわけだ。

 

それで、本人の守護霊団、友だちの守護霊団のお手伝いもあって、運勢がどんどん招き寄せられるわけである。

 

傷ついた心を持った人が、こういう人のところにやってくると、不思議と傷は癒され、元気が湧いてくる。

 

「やればできるんじゃないかな」という気がして、なにごとにも前向きに取り組んでいこうとする。

 

つまり、プラスの方向へ気持ちのチャンネルが切り替わるのだ。

 

逆に運勢の悪い人は、周囲がドロ~ンと暗く、人々の運勢の炎を吹き消そうとしている。

 

行動的でなく、やる前からすでに結果を気にしており、しかも、予想している結果はいつも「凶」。

 

つまり、最悪になると考えている。

 

ところが、本人は自分のことを「慎重な人間」などと思い込み、それが一番いいんだと確信している。

 

〝世の中、そんなにうまくいくわけがない〟と悟りの境地である。

 

人生を前向きに生きようとしないので、守護霊の働きはどうしても鈍くなる。

 

したがって、悪霊からのガードも弱くなりがちで、どちらかといえば、悪霊リード型性格に陥ってしまう。

 

こういう人物の仲間になると、悪霊運勢の影響を受け、ものごとを批判的に見るようになり、人をほめることより、悪口をいうことのほうが圧倒的に多くなる。

 

霊的な輝きは消え失せ、表情も自然と曇りがちになる。

 

「世の中の苦しみを、自分一人で背負って頑張っているのだ」という、まるで、資金ぐりのよくない中小企業のまじめ社長の表情である。

 

人とつきあったり、友だちを選ぶ場合、相手が「善霊(守護霊)リード型性格」なのか、「悪霊リード型性格」なのかをきちんと見極める必要があるだろう。

 

自分の運勢をよくしようと思うなら、悪霊のほうには近づかず、善霊グループと数多く接触することだ。

 

できれば、自分自身が善霊グループの中心的な存在となり、「善霊の輪」を周囲にどんどん拡げていくぐらいの覚悟を決めたい。

 

そうすれば、運勢は飛躍的に向上する。

 

善霊の発する〝気〟が、ものの見方、発想、体調、人脈などすべての面において、向上発展するほうへ〝気運〟を向けるからである。

 

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神の愛に帰結する


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神の愛に帰結するのが、信仰の妙諦なのです。

 

神の愛に帰結するには、困難と不遇のときに、神の愛による開運、改善の未来を信じきることです。

 

神様は愛の方なのだから、愛でしかないのだから、先々、私たちを立派にしよう、運をよくしようとお考えになって、そうされているのです。

 

また、苦のどん底にあるとき、もう苦しくてたまらないときにも、苦のどん底に神の愛を感じ、信じきることです。

 

「ああ、神様は愛で苦しめておられるんだ」と。

 

そう思うことができる人は、本当に神の愛に生きている人間です。

 

神様は愛なんだ、ということが本当にわかったら、これができなければウソです。

 

 

それができない人は、苦しいときに、おのれの運命を呪い、家族を呪い、相手を呪い、前世のカルマを呪い、神様を呪い、とくに世の中を呪っています。

 

自分の運命の儚さを悔しく思ったりします。

 

そうではないのです。

 

神様は愛なのです。

 

すなわち、前世の刧を取ってくださっているのです。

 

「あとできっとよくなる。幸せになるときが来るに違いない。今世は苦しいけれど、霊界に行ったら素晴らしいときがやってくるに違いない」 と、そう考えて、八十歳、九十歳の人は、霊界のことに心を巡らせたらいいし、若い人は、中年から晩年のことを考えたらいいのです。

 

「今世は、この苦しみによって、刧を抹消していただいているんだ。

 

そして、魂が練磨されだ分だけ、素晴らしい霊界の日々が待っているんだ。

 

そのための苦しみなんだ。

 

神様は愛なんだ。

 

愛でしかなさらないんだ。」

 

と、いつもそこに帰っていくのです。

 

こうやって私たちは、神様の愛に帰結することができるわけです。

 

帰結しなければ、本当の信仰ではありません。

 

そういう人が、御魂の奥からの歓喜を神様からいただくことができるのです。

 

神様の愛は波動です。

 

愛の波動です。

 

だから、神様から愛されると、何だか知らないけれど、御魂の底からの幸福感を感じます。

 

何か嬉しいなぁというときは、神様の愛の波動を受けているのです。

 

だから歓喜となって喜びを感じるわけです。

 

霊界で神様のために働いておられる方々は、いつも神様の御心に合うように動いておられるから、愛の波動をいただくのです。

 

嬉しいという歓喜をいただくのです。

 

神界における愛は、波動。

 

霊界における愛は、念。

 

現実界における愛は、喜ばす行為。

 

愛も、神界、霊界、現実界の三段階があるわけです。

 

世の中で一番幸せなのは、神様からいただく愛と歓喜なのです。

 

 

すべてをプラスに転化できる発想が運命を変える


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順風満帆な人生を歩み、出世運も金運もトントン拍子で手に入れた、なんて人は例外中の例外であって、99.9%以上の人は、挫折したり傷ついたり、悲しんだり、苦しんだりしながら、成功への道を歩むのです。

 

だが、同じような苦悩の境遇にありながら、「苦しい」と感じる人と、「やりがいがあって楽しい」と考える人がいます。

 

たとえば、船が難破して無人島に流れ着いたとします。

 

ある人は、「なんて不運なんだろう、船は難破するし、挙げ句のはてに流れついた末が無人島だなんて。ああ、私はツイていない。また、ここで苦労しなければならないのか。」と考える。

 

だが、ある人は、「難破したのに、よくぞ助かった。私はツイている。神様に守られている。この無人島で救助船がくるまで、しばしのんびりと暮らすことにしよう。」と考える。

 

置かれた境遇はまったく同じであるが、どちらが幸せで神に近い存在かといえば、

 

「私はツイている」と感じている人であることはいうまでもないですね。

 

こういう発想のパターンが、神霊界に好かれ、人々に愛されるのです。

 

そして、運が強くなり、お金も人も、神様までもが集まってくるのです。

 

進むべきか、退くべきか。

 

重大な岐路に立ったり、困難をまともに受けた時、実はその時こそが、出世運と金運をつかむ最大のチャンスなのです。

 

そして、物事をすべてプラスに転じる発想と魂の力があれば、必ずや自分のとるべき道がわかるはずです。

 

成功者は、このように、人生の岐路に立つごとに、チャンスをものにしていくのです。