人生は自分が決める

このブログを訪れてくれた皆様が幸せに過ごせるように願って綴っていきたいと思います

人は幸せになるために生まれてくる


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「人は何のために生まれてくるのか」

 

これは人類にとって永遠のテーマです。

 

「私は、幸せになりたくて生きてるんじゃない」

といったへそ曲がりや、

 

「生まれたくて生まれてきたんじゃない」

 

「親が勝手に生んだんだから、勝手に生きているんだ」

 

と言う人もいますが、大多数の人々は幸せになることを願っているものです。

 

私は、

「人は生まれてきたからには、幸せになる義務がある」

 

これが天命だと思っています。

 

ただし、幸せにはいくつかの段階があります。

 

低い次元として、まず非常に即物的な快楽があります。

 

これは、一般にいわれている性的な快楽、肉欲的な歓喜こそ一番楽しく、幸せであるとする、動物的で肉体的な欲求を満たす考え方です。

 

少しランクが上がると、経済的、物質的豊かさの追求になります。

 

おいしい食事を、華やかな衣装を、大きくて快適な住居を、そして名誉や地位や富を、ということになります。

 

しかし、このような低次元の即物的な幸せ追求(もちろん、それらも必要なものではありますが)には、基準も限界も真の豊かさもないから、いつでも人は飢えた餓鬼のように、次々と量のみを追い求めることになってしまうのです。

 

そうして経済的、物質的な豊かさのみによる幸せは、求めれば求めるほどかえって真の幸せから遠ざかり、人の心を寂しくし、虚無を感じさせることになるのです。

 

この真実をこそ、心せねばなりません。

 

世界中を旅行した人が、色々な国の人々と出会い、その結果わかったことは、

 

「一番貧しい国の人々が最も優しかった」

 

という事実だったそうです。

 

何故でしょうか?

 

物質の豊かさでは、人は決して心まで豊かになれないということではないでしょうか。

 

むしろ貧しい人々のほうが心優しく、美しい…。

 

このことについては、二千六百年も前のインドのゴーダマ・シッダルダ、すなわち釈迦もまた、同じ悩みを抱えていたことはご存知でしょう。

 

王子として生まれた釈迦は、経済面はもちろんのこと、妻も子供もいる何不自由ない生活を送っていながら、いつも心に満たされない虚しさを感じ続けていました。

 

「人は何のために生まれて、なぜ生きるのか」

 

といったテーマが、常に彼の心を悩ませていたのです。

 

そして、答えを求めてすべてを捨て、出家し、ついに大悟に達したのです。

 

人の一生は変化の連続です。

 

そして、“少年老いやすく、学なりがたし”といいます。

 

青年時代はハンサムでスポーツマンだった人も、中年になればお腹も出てきます。

 

肉体的なものはやがて老い、衰えてきます。

 

女性も若い頃は人に振り向かれるぐらい美しかったのに、当然のごとく年と共に醜くなり人気もなくなって寂しくなってきます。

 

それは誰一人として避けられません。

 

実に哀しい天地の法則ではないでしょうか。

 

それだけに、人は老境に近づけば近づくほど、心の持ち方が大切になってきます。

 

それが上手に出来た人は、年とともに逆に幸せになっていくことが出来るのです。

 

心の持ち方(心の豊かさ)は、魂に物やことでは味わえない実に大きな悦びをもたらしてくれるからです。

 

その媒介が芸術であったり、信仰であったり、学問であったりするのです。

 

自分の魂が本当に満足するときの悦びは、永遠のものです。

 

人が再生転生し、生まれ変わっても死に変わっても、変わらない悦びが魂の悦びであり、それは全て記憶されていくのです。