人生は自分が決める

このブログを訪れてくれた皆様が幸せに過ごせるように願って綴っていきたいと思います

ほほえみを忘れた人ほど それを必要としている人はいないのだから


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ほほえみは 

お金を払う必要のない安いものだが

相手にとって非常な価値を持つものだ

ほほえまれたものを豊かにしながら

ほほえんだ人は何も失わない

フラッシュのように瞬間的に消えるが

記憶には永久にとどまる

どんなにお金があっても

ほほえみなしには貧しく

いかに貧しくても

ほほえみの功徳によって富んでいる

家庭には平安を生み出し

社会には善意を増し

二人の間では友情の合言葉となる

疲れたものには休息に

失望するものには光となり

悲しむ者には太陽

いろいろか心配に対しては

自然の解毒剤の役割を果たす

しかも買うことができないもの

頼んでも得られないもの

借りられもしない代わりに盗まれないもの

なぜなら自然に現われ

与えられるまでは存在せず

値打ちもないからだ

もし  あなたが誰かに期待したほほえみが得られなかったら

不愉快になる代わりに

あなたのほうからほほえみかけてごらんなさい

実際  ほほえみを忘れた人ほど

それを必要としている人はいないのだから

 

 

この詩は渡辺和子さんの著書「美しい人に」で紹介されていたものです。

 

特に最後の数行はとても美しい真理をあらわしています。

 

とかく期待したほほえみや、あいさつ、やさしい言葉が得られないと不愉快になり、自分からも相手に「してやるものか」という気持ちになりやすいです。

 

しかし、本当によく考えてみると、できない相手こそ、それを私から必要としている人なのだということ、ここに思いやりがあり、相手の出方に左右されない主体的な生き方があるのです。

 

 

苦しんでいる時、さみしい時、ほほえみを人に求める気持ちがつよい。

 

でもそれが得られなくても私に相手を責める権利はない。

 

自分もほほえまれたいのなら、他の人もそうでしょう。

その時に自分が最初の一歩を踏み出すこと、これが勝負のように私には思えます。

 

気が重くてとうていほほえむことなどできないと思われる時、ああそうだ。自分の暗い顔ど他人の生活まで暗くする権利を私は持っていないと思い直して、すれ違う人に、話かける人に、できるだけにこやかに接すること、これはやさしいことではないけれども、できないことでもない。

 

自らに言いきかせてするのであるからそれは自らを偽るものでもない。

 

ほほえみは何の苦労もない人、不幸、災難に逢わない人が持つ特権ではない。

むしろ、そのようなことに出逢って後に生み出されたほほえみは自然のものよりも美しいし、人の心を平和にする力をもっている。

 

人間にはいろいろの力が与えられているけれども、その中で最も素晴らしい力は、物事に意味を与えることのできる力ではないだろうか。

 

苦しみにさえ価値を見出し、ありがたいと思うことができ、逆境においてさえほほえむことのできるのが人間である。

 

人間にとって自由とは、諸条件からの自由でなく、それら諸条件に対して自分のあり方をきめる自由であるとフランクルが言っているが、この自由が人をして「いつもにっこりと笑うこと」を可能ならしめるのである。