一生懸命祈ったからといって、それで神様に心が通じるわけではありません。
自分のほうから一方的に神様にぶつけたからといって、神様は聞いてくれるとは限らないのです。
神には何を思い、神様は何を欲し、神様はどうしてほしいのだろう?
目の前に神様がいらっしゃって、その慕わしい神様と心と心で交流するつもりで語りかけるのです。
時には一生懸命祈ったり、時には歌を歌ったり、時には語りかけてみたり、また時にはつぶやいてみたり・・・。
時には神様の懐に包まれたように甘えてみたり、
「お願いだからー!」って泣きすがってみたり、
お父さんのように「頼みますよ」って言ったり・・・。
お父さんやお母さんやおじいさんやおばあさんや、お姉さんやお兄さん。
目上の人達としてきたような、心の交流をしないと神様には通じないのです。
どんな天上界の神様であろうと、大日如来や不動明王であろうと、自分の心の中にいつも、「神様に守ってもらっているんだ」と思うのです。
少年のように、少女のように童の心で神に接するのです。
体がくたびれて横になったり、眠くなっている時でも神様に包まれて眠くなっている。
目が覚めた時は、神様に包まれて覚める。
神様ほど素晴らしい味方はいないのです。
だから、目上の人に親しく接するように、神様の懐にポンと飛び込んでいく。
そうすることが、神様との交流には必要なのです。
神様を遠い存在にしないことが大切なんです。