人間は誰でも御魂を持っています。
その御魂には、良し悪しがあるのです。
まお、人間性の良し悪しと言い換えてもいいでしょうが、御魂の良し悪しを見分ける場合、どこで判断するのかというと、その人が今日までどんな人生を送ってきたかを見るのです。
つまり人生の足跡を見れば、その人の御魂がいいか悪いかがはっきりとわかるのです。
口から出てくる言葉を見ただけではわかりません。
誰でもいいことを言うし、素晴らしい言葉を出します。
心に思っていなくても、言うだけなら何でも言えるわけですから。
だから、言葉だけ見ると時に誤魔化されることにもなりかねませんが、人生の足跡はごまかしが利きません。
だから、足跡をしっかり見ていれば誤りはないのです。
たとえ挫折があっても、それをバネにしてバーンと乗り越えて来たのか、挫折のままで終わってしまったのか。
あるいは後ろ足で砂をかけるようなことをやってきたのか、人を蹴落とすようなことをやってきたのか。
こうした足跡はすべて、そのままが御魂の性質であり、御魂に刻まれたしるしなのです。
どんなことでもやり遂げた人、やりおおせた人、貫き通した人というのは荒魂がしっかりした人。
いつも誠で貫いてきたという足跡を残した人は素晴らしい御魂。
今どんなに純粋で、どんなに誠に生きようと考えていても、その人の足跡をみたらいい加減だったという人は、その足跡どおりの御魂なのです。
その人の御魂が顕現し始めるのはだいたい、16歳 、17歳。
自我に目覚めるころです。
だから、16歳、17歳の頃にお酒ばかり飲んでいたような人、女遊びばかりしていたような人は、元来がそういう御魂と見て間違いない。
だいたい16歳、17歳の頃の自分、それが魂の奥に隠れている本当の自分なのです。
それから、男性は30歳ぐらいになると前世の自分、前世の御魂が顕現するのです。
30歳になるまでどんな人生の足跡を残してきたかを見れば、だいたい御魂の傾向がわかります。
だから、30歳に近い人は急いでこの足跡をつくらなければなりません。
足跡、つまり体験、実行を残していかなければならないのです。
いい御魂の人間であるかどうかは、そこをみればすぐにわかります。
巷には、われこそはメシアであるとか、われこそは救世主であるとか宣伝する人がいます。
言葉は立派です。
しかし、その人が送ってきた人生の足跡を見れば一目瞭然です。
正神界の御魂であるかどうか、すぐに審神(さにわ)できるのです。
とにかく、足跡以外にはありません。
どんな理屈があろうが、どんな理由があろうが、そんなものは問題ではないのです。
例えば、
「社長が気に入らなかったから会社を辞めたんだ」
「上司のいうことが癪に触ったから辞めたんだ」
「仕事が性分に合っていなかったから辞めたんだ」
それぞれ理由はあるでしょう。
しかし、そういう足跡しか残せなかった人、道半ばでやめてしまった人は、やはり中途半端な御魂なのです。
どんな理由があろうと、どんな屈辱があろうと、それをグッとこらえてやり遂げた人はよき御魂なのです。
だから、どんなことがあっても辛抱する。
貫き通す。
立派な足跡を残すよう努力する。
己の御魂の神試しだから、神様が見ているから只今、只今を立派に生きようと努力するわけです。
素晴らしい御魂として神界に行くか、卑しい御魂として地獄界に行くか。
それはすべて、一生涯の足跡で決まるのです。
境地ではありません。
境地というのは霊界ですから、どんなに高い境地境涯に至ったとしても、どんなに深い悟りを得たとしても、誰もが認め、神が認める立派な足跡を残さなければ神界には入れないのです。
どんなに悟ってもそれだけではダメなのです。
魂の世界、神の世界は、仏様の世界のもう一つ上にあります。
そこでは心の悟りは通用しません。
足跡しか通用しないのです。
だから、この現実世界でどういう生きざまを残したか。
それが神界とつながる唯一のパイプであり、人生のすべてなのです。
菅原道真公がなぜ神様と崇められているのか。
貫いたからなのです。
あれだけの才能を発揮して生涯を貫いた菅原道真公、
人生のすべてを至誠で貫いた楠木正成、諸葛孔明。
誠を形で出し続け、一生涯を締めくくった人はみんな、最高の御魂となって神界で輝いています。
誠の生きざまを生涯貫き通した人であればあるほど、素晴らしい御魂となっているのです。